2008年11月04日

第二章:13

【メディア型コミュニケーションの時代から、P2Pコミュニケーションの時代へ】
(メディアコミュニケーションとP2Pコミュニケーションの対比図)

 さて、2006年夏頃から、インターネットのこれからは「P2P(ピアツーピア)の時代」であると、私はブログで論じてきた。
ピアとは港のハシケの意味であり、ハシケからハシケへと直接情報が伝達されるということ。つまり、メディアを介さない情報交換の時代がやってくると指摘したのだ。

※ P2PというとWinneyに象徴される違法システムと捉える向きもあるだろうが、基本的には、ネットワークの情報伝達のネックが一極に集中するという性質を持っているクライアント・サーバー・システムに究極の負荷分散をもたらすシステムだ。 Winneyでは著作権の侵害が問題になったが、私の論では著作権は捨象している。情報の個人取引・物々交換といった意味合いだ。

 分かりやすく説明することにする。
 たとえば社員食堂だ。A定食もB定食も、厨房と食堂の仕切りにある配膳台で授受される。このとき、配膳台がメディアであり、お盆に盛ったご飯やオカズも味噌汁は情報コンテンツ。それがメディアの時代だ。
 一方のP2Pというのは、メディアという空間が存在しないやり方だ。たとえば、新幹線で売り子さんがやってくる。そこで、弁当を買う。そこにはメディアは存在しない。
 メディア型のコミュニケーションは、メディアが消失してしまえば成立しないし、メディアの所有者の影響から免れない。つまり、社長の一声で、コンテンツたる定食のメニューが変更されることもありえぬことではないし、社業の低迷により、社員食堂というメディアそのものが閉鎖されることも可能性としては否定できない。
 一方の新幹線の売り子さんの場合はどうか。列車の通路がいっぱいになればデッキで駅弁を売るだろうし、売り場所に制限などされぬのだ。
 勿論、弁当の内容よって売れ行きは変わるだろうし、その日の乗客の特徴によっても異なるに違いない。とはいえ、そこに介在するのは、コンテンツ提供者である売り子とコンテンツ受信者である乗客だけであって、社員食堂のようなメディア型コミュニケーションツールのような、そのコミュニケーションに直接関係内強権者(社長)の意向が影響することなどないのだ。

 そして、2007年のインターネットはもっと複雑だ。
 アメリカにdiggという人気の投稿型ニュースサイトがあるという。そこで次のような事件が起きた。
 HD-DVDのコピープロテクトを打ち破る暗号キーの情報が掲載されたのだ。掲示板に載っている暗号と何らかのプログラムを使えば、コピイプロテクトがかかった市販HD-DVDソフトをコピイすることができるのだろう。
 当然のことながら、HD-DVDの業界から情報の削除依頼が来る。diggの運営者・管理者はそれらの要求に抗うはずもなく、即刻削除する。だが、一度、掲載されてしまった暗号キーは、多くのユーザーたちにすでに保管(キャッシュ)されている。
 だから、運営者・管理者が幾度となく暗号キーを消そうとも、多数のユーザーたちが暗号キーのデータをアップしつづける。そのようなイタチゴッコともいえる状態が起きている。
 暗号キーをアップロードしつづける匿名者たちの思いはつぎのようなものだろう。
 コピイプロテクトは、著作権者にとっては必要不可欠なものだが、ユーザーにとっては窮屈なものだ。それは、コピイ&ペイストが専らなインターネットの現実とは遊離しており、インターネットの理想とは相容れない。著作権者の存亡を危うくする大量コピイや大量流通は許されないが、ソニーの盛田氏がカリフォルニアの法廷で戦って勝利したような、「私的な利用においては認められるべき権利」ではないか…。
 無名匿名なdiggユーザーはそうだとしても、世の中はそのようには動いていない。
 アップロード&削除のいたちごっこに疲れたdiggの運営者は、ついに値を上げた…。今後diggの管理・運営者は、サービスの停止をするか、巨額の賠償金を負うという2者択一を迫られている。
 つまり、いままでカテドラルの強権者だったものが、カテドラルがあるばかりに身動きがとれず、なんらかの事件をきっかけに破滅する。だが、カテドラルに集まっていた無名氏たちは、つぎのカテドラルに移動するのみ。世の中にカテドラルなど星の数ほどあるのだから、移動費用が一切かからないインターネットでは、まったく支障はない。
 そして、カテドラル周辺に集っていたユーザーたちのコミュニティーも、別の場所で行なえばいいのだから、存亡の危機とは無縁だ。
 ユーザーにとって、ニュースサイトは無数にあるし、diggが無くなれば、代替物を探せばいいだけの話だ。
 この状況こそが、「表現の自由」の名のもとに、メディアが崩壊する事例だ。そして、そのことは、既存のメディアたちがなぜ、存続できてきたかを暗示する。
 既存のメディアたちは、diggのような桎梏に陥らぬために、発信情報を操作してきた。
 そもそも、既存のメディアは、「表現の自由」とは無縁なのだ。
posted by スポンタ中村 at 19:22| 東京 ☁| Comment(0) | 第二章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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