2008年11月01日

第二章:10

 さて、それではインターネット以外を見渡すとどうなっているだろうか。豊な個対個のコミュニケーション。必要な情報が必要な人に与えられる時代が到達しているのだろうか…。

 2007年のマスメディアとその周辺を眺めてみても、その兆しは一向に見えない。インターネットの側からマスコミを敵視して見ることをあえてしなくても、マスコミの腐敗はさらに深まっていると感じられる。
 テレビ番組は、視聴率競争に勝利すればいいということで、疑わしい情報を発信する。
 関西テレビの「あるある大辞典」でおきた、納豆ダイエット捏造などは、その典型だろう。
 また、新聞でも同様なことが起きている。深夜におきた不測の医療事態にも関わらず、その事案に遭遇した病院を新聞は痛烈に批判した。その結果、当該地域の医療システムは崩壊するなどという忌々しき事態が発生した。その背景には、事案をセンセーショナルに扱うことによって、新聞の販売部数を伸ばしたいという、新聞社の自己都合があったことは否定できぬだろう。
 メディアを運営するためには対価がかかる。その対価を補うために、メディア運営者たちがある種のステークホルダー(利害関係)に陥ってしまうのは当然のことだ。とはいえ、ステークホルダーに順じて、メディアに都合のいい情報ばかり流すのでは、受信者たちはたまったものではない。

 カテドラルの時代は今とは正反対だったろう。
 メディアの構築には対価がかかるため、その対価を支払った個が権力を持つのは当然のことだ。ここで言うメディアの構築とは、巨大な聖堂を建築することだ。
 権力を持った個はそのまま発信者となり、言論を欲しいままにする。それが、グーテンベルグの発明以来世界中で繰り広げられてきた伝統だ。
 だが、インターネットの登場により、メディアの構築費用は限りなくゼロに近づいた。その結果、いままで対価を支払うことで強権を得ていた発信者の合理性が希薄になる。
 それが2007年に起きていることかもしれない。
 新聞しか伝達メディアがないとき、新聞がいい加減なことを書こうとも、新聞は輝いたままでいられたのだ。
 だが、いままで発信権を持たなかった人達が発信力を獲得すると、メディアを所有することを発信資格として保持していた強権者たちの言論の傲慢さが批判されることになるのだ。
 否、傲慢さは受信者にとってエンタテイメントとして処理される。問題は、メディア者たちが自己都合のために発する事実に反する情報の発信だ。
posted by スポンタ中村 at 19:05| 東京 ☁| Comment(0) | 第二章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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